時の記憶ーなつかしの指宿ー
109/116

107た長さに切り、その松の木の皮をむき、山積みして溜まったらトラックに積みこまれ、パルプ工場へ運んでいく。60 池田湖名物だった稚アユとりの光景。例年3月〜5月ごろまで続けられ、福岡、佐賀、長崎の各川に放流するため輸送された。61 畳一畳くらいの大きさのバットに海水を入れ温泉の熱で下から温めると塩ができ、それを1日10回くらい混ぜる。それを分離器にかけニガリを取って塩を作っていた。62 左側のタンクは海から海水を引き溜めていた。学校のプールくらいの大きさで夏は子どもたちが泳いでいた。63 昭和29年の市政だよりでは、「その生産量はグングン跳ね上がり、年間3,500トンの実績をあげ・・・」と紹介されている。64 昭和39年まで操業していた製塩工場。現在も煙突が残ってる。「指宿の塩業」 指宿塩業組合 昭和41年から転載。65 写真右手に見えるのは、イタヤ貝漁の漁船。66 イタヤ貝漁を終えた漁船が続々と摺ヶ浜海岸に帰ってきていた。67 広い砂浜が残っていた摺ヶ浜の海岸線。68 イタヤ貝漁。69 幻のイタヤ貝。70 この年、かつおを中心に10億円を超える水揚げ高が記録された。71 開聞岳・西大山駅付近から。72 松原田から特老薩摩富士荘入口。現在のエール㈲駐車場。73 山川でのスイカの試作は昭和35年。昭和37年には栽培面積が広がり、山川町スイカ連絡協議会が結成され、銘柄確立への第1歩となった。74 かつお漁船の出発を見送る家族。山川港にて。75 動力臼が発明される前までは、すべて手作業で大根を突いていた。76 干した大根を動力臼(真造式大根精練機)で突く作業。塩と水をかけながら5〜10分程度突くと、大根に付いていた土も除かれ、柔らかく肉質も均一になる。働く人77 おばは、帝国銀行時代から鹿児島銀行で働いていた。当時の支局長よりいいお給料だったと聞かされた。40年〜45年位勤務したようだった。みなさん当時のキャリアウーマンのはしりだったのですね、髪型もおしゃれです。78 当時の広報紙には「なお、ここには専任の案内ガール二人をおき、訪れた観光客の案内にあたっている」とある。

元のページ 

10秒後に元のページに移動します

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です