時の記憶ーなつかしの指宿ー
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104家族1 大正元年の乳母車。裕福な家には、こんな乳母車で育てられる子もいた。2 クラッシクカーが懐かしい。3 祖父、祖父の兄弟らと出征前に撮った記念写真。4 指宿駅前(現、木之下医院)に父が初めて病院を建設。建設費用は2万円だった。父は、開業1か月後に再招集され、関東軍ハイラル駐屯部隊軍医として満州に渡った。5 戦後10年がたち、人々の暮らしにも少しずつ豊かさが見られるようになった。親族からいただいた人形たちも、土人形からセルロイドへ。当時のおもちゃ事情がわかり興味深い。6 叔母の結婚式。新婦方に私の両親、姉2人がいる。私はまだ生まれていない。指宿で結婚式を挙げるのはまだ自宅が多かった中で、よくここで挙げたな、ハシリだなと思った。7 テレビのある家はまだ珍しく、他の人が家まで見に来ていた。デザインがレトロ。8 火鉢で暖をとりながらの朝食風景。9 五人番には潮干狩りやミナ取りに来る家族も多かった。ここは町民のお風呂でもあった。現在も四角い石組みが残っている。10 砂トンネルと妻と息子。海水浴に来た時の思い出の1枚。11 私と母、二人の姉、祖母、叔母。家族総出でお弁当を作り、ミナ取りに。このアコウの木は平成16年の台風で倒れ、現在、太平次公園に移植されている。12 湊地区にあった写真館「おぐら」の前で撮った1枚。スーツに下駄姿がおもしろい。当時は電話がまだ少なく電話番号が750と3桁。13 当時の広い砂浜。波と戯れる毎日。子どもたちの遊び場だった。14 着物姿が私。従兄弟の子と会って長崎鼻に一緒に行った時の1枚。15 一家団欒で花火を囲む。浴衣姿が風流だ。16 馬に乗っての嫁入りの光景。昭和40年代ごろまでは市内でも見られた。17 正月前の餅つき光景。18 おそろいの道行コートに、おそろいのポーズで。学校19 着物姿の児童たちが写っている。丹波尋常高等小学校卒業記念アルバムから転載。

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