今和泉島津家の館は、現在の今和泉小学校にありました。
初代の島津
跡地には当時をしのばせる石垣と手水鉢や井戸が残っています。
今和泉島津家の本宅は、現在の鹿児島市大龍小学校西隣にあたり、4600坪の敷地があったといわれています。
もともと、和泉家は、鎌倉時代に第4代当主島津忠宗ただむねの次男である忠氏ただうじが出水を治めていた時に、姓を出水(和泉)に改めたことに始まります。
しかし、応永年間の戦で和泉家5代当主の直久が戦死し、和泉家が断絶しました。
将軍家の血統が途絶えたときに、跡継ぎを迎えるため徳川御三家が作られたように、島津家にも「一門家」が設けられました。
約320年後の延享元年(1744)、和泉家は今和泉島津家として再興され、藩の家柄の中で最上の「一門家」の一つとなりました。
今和泉島津家には忠郷から忠欽ただかたまで8人の殿様がいました。
今和泉島津家の墓地には、初代の忠郷から6代目の忠冬までの殿様とその一族が祀られています。
墓石は14(内1基は慰霊碑)あり、その周りは100余りの灯ろうで囲まれています。
その中には篤姫の父、
篤姫の墓は、徳川家の菩提寺である上野の寛永寺にありますが、霊廟は非公開です。
篤姫の父忠剛の墓
25代当主島津重豪の娘の
10代将軍徳川家治の嫡子である家基が18歳で亡くなると、婚約者である豊千代が養子となり、翌年には名を家斉と改め、15歳で11代将軍となりました。
結果的に、茂姫も将軍の御台所となり、家斉の死後は、広大院と名乗り72歳で亡くなるまで大奥を仕切り徳川家に仕えました。
13代将軍家定は、二人の妻を公家から迎えましたが、相次いでともに急死しました。
家定自身も病弱であったため、家定の母親である本寿院は、将軍を支えられるようなしっかりした夫人を求め、広大院の例にあやかりたいとして、嘉永3年(1850)島津家に縁談を持ち掛けました。
幕府から縁談が持ち掛けられたものの、島津本家には適齢期の娘がいませんでした。
そこで今和泉家10代当主忠剛の子、一子(かつこ)が候補にあがったのです。
一子は天保6年(1835)12月9日(和泉家嫡流系図には天保7年と記される)に第10代今和泉領主島津忠剛の子として鹿児島に生まれました。
この縁談を受け、嘉永6年(1853)には、名を篤姫に改め、島津藩主斉彬の実子として幕府に届けられました。
その後、篤姫は、安政3年(1856)7月に近衛家の養女となり、名を篤君(あつぎみ)・敬子(すみこ)と改め、同年12月18日に家定と結婚しました。
尚古集成館所蔵
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今和泉鳥山生まれの「宮田
篤姫(天璋院)の御付き女中として江戸城に入り、晩年まで篤姫の身の回りの世話をしたと伝えられています。
明治に入り、篤姫は、愛用していたこの手あぶりを妙珠院に渡したと言い伝えられています。
手あぶりの蓋には、繊細で美しい細工が施されています。
篤姫下げ渡したとされる手あぶり
※無断複製・転載を禁ず。
JR薩摩今和泉駅の北西約200mに建てられています。
祭られている神様は豊玉姫命で、通称デメジンサーと呼ばれています。
棟札の一部には元禄8年(1695年)のものがあり,島津藩主第20代綱貴公を守るために地元の造営人たちが「主君を敬い,民を愛し、災難が起こらないように」、また「長生きして子孫に恵まれ、それぞれの願いが叶うように」という思いを込めて建てたと伝えられています。
篤姫もこの神社を訪れたのでしょうか。
木立の中にひっそりと佇む神社は、現在も地元の鎮守の森です。
昭和56年、今和泉島津家の菩提寺である「光台寺」の山門にあったと思われる仁王像が岩本地区の畑から見つかり、長い間、橋牟礼川遺跡公園に仮置きされていましたが、平成19年6月、豊玉媛神社の境内入り口に移設され、およそ140年ぶりに地元に里帰りしました。
豊玉媛神社
『斉彬公史料』には、山川や吉野、佐多などの薬草園で作られたレイシやリュウガンの実を蜂蜜漬けにして大奥の篤姫のもとに送ったことが記されています。
また、篤姫は薩摩の赤味噌をたいへん好んだらしく、大奥から薩摩に赤味噌を分けてほしいとの書状も女中の間でかわされています。
ふるさとの味は篤姫の心をなごませたのでしょう。
篤姫はビワが好物であったとも伝えられ、寛永寺にある天璋院篤姫の霊廟の周辺には、ビワの木が3本植栽されています。
寛永寺の方々は、霊廟を掃除する際、ビワの種が落ちていると「きっと、天璋院篤姫様がビワを木からもぎられ、召し上がったのであろう」と話すことがあるそうです。
平成18年11月、今和泉島津家墓地の測量調査に伴い、風化の著しい7号墓と10号墓の墓石の保存処理作業が行われました。
その際、墓石に納められていた木箱に記されていた文字や遺髪、墓の形態などの検討から、従来、3名の子供の合葬墓とされていた7号墓が、2代忠温の墓であることが判りました。
また、2代忠温の墓とされていた10号墓が、実は忠温の正室の墓であったことも明らかになりました。
また、12号墓は忠厚の正室の墓、14号墓は忠喬の側室の墓、6号と11号墓は忠厚の側室の墓である可能性が高いと考えられます。
今和泉小学校の敷地内には、今和泉島津家の別邸に伴う井戸が残っています。
周辺を発掘調査した結果、かまち石と石畳の一部が残っていることが判りました。
井戸の造りやその向きが、別邸を囲む海岸の石垣と平行していることからも当時のものであることが確認されました。
今和泉島津家屋敷があった周辺には、江戸時代の風情を残す町割が今も残っています。
また、今和泉島津家第3代の忠厚と第4代忠喬が隠居した屋敷の門構えが現在も残っています。
三家の関係を相関図にしてみました。
島津家は関が原の戦でこそ徳川と敵対しましたが、その後は、婚姻関係を築き密接な関係を保っていきます。
この火薬入れは、第4代今和泉島津家当主島津忠喬公が晩年、家臣団の一人秋山佳長に遺品として授けた品といわれています。
側面にあしらわれた百足の模様は、甲州流軍学の影響と考えられます。
戦国時代の甲斐武田氏の兵法は理想とされ、江戸時代になって全国の諸藩に取り入れられました。
その武田氏の旗指物の一つにこのような百足を現したものがありました。
※甲州流軍学・・・平安時代から戦国時代にかけて活躍した甲斐国(現在の山梨県)の武家、武田氏の戦術は理想とされ、江戸時代になって大成された。その兵法のこと。