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揖宿神社〜斉彬の休日〜


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嘉永4年に薩摩藩主となった島津斉彬は,薩摩半島沿岸を巡見し,33日間の日程のうちなんと23日間も指宿に滞在した。趣味の放鷹や温泉湯治のほ か,濵﨑太平次との関係を密にするためとも言われるが,実は,指宿がお気に入りの場所だったのではなかろうか。指宿神社周辺には名君斉彬が過ごした風景が あちこちに残っている。


スポット一覧

揖宿神社は1200年以上も前の古代から崇敬される神社。現在の社殿は,弘化4年(1847)に薩摩藩主の島津斉興が建造したものだ。花崗岩で造られた鳥居は,嘉永元年(1848)に斉興の命令で,大隅半島の根占から運ばれて建てられ […]

揖宿神社には,推定樹齢700年以上といわれるクスノキの大樹が8株も群生している。さらにクスノキの周りには,エノキやイチョウなど,高さが20mを超える大木がまとまって生えている。県内でも珍しい社叢である。

揖宿神社には,能面や神輿など数多くの宝物が伝えられている。特に,室町時代中期の作とされている尉面(男の老人の顔),姫面(若い女性の顔),狂言面の三面は,日本で能や狂言が完成されたころの貴重なものだ。神社では「能」や「狂言 […]

薩摩藩の財政が行き詰まる中,文政11年(1828),調所笑左衛門広郷は財政改革主任に大抜擢された。藩には500万両もの借金があったが,国産品の販売と唐物貿易を拡大し収入を増やしたり,借用書の借金の返済期間を250年に書き […]

揖宿神社前の田の神は,ムクノキを神体としている。これは樹木に田の神が宿ると伝えられている珍しい事例で,田の神の石像が作られる前の信仰のかたちを伝えるものだ。揖宿神社では,昭和28年頃まで,このムクノキの下でお田植え祭りが […]

現在残っている殿様湯跡は,天保2年(1831)に第27代薩摩藩主島津斉興によって二月田に設けられたものだ。浴槽は,お湯が4つの湯つぼを次々に回って適温になるように工夫されている。浴室には洋風のタイルが使われており,大変豪 […]

殿様湯の南側にある湯権現は,濵崎家第5代の太左衛門が創建した。権現とは,仏が日本の神に姿を変えて現れること。「湯権現」という名前は,温泉のさまざまな効き目が神仏の力によるものという信仰の表れであろう。

殿様湯跡前の二反田川の川岸には,天保14年(1843)に造られた石積みの堤防が残っている。当時は,二反田川の河口から約3kmにわたって7段の石積みが続いていた。試算でも約6万個の石が必要になる大工事だ。島津の殿様は,屋形 […]

安政5年(1858),二月田に湯治に来た島津斉彬は,指宿の大干ばつを目の当たりにし,将来に備えて,東郷吉左衛門らに97の井戸を掘らせた。翌年,井戸を掘った記念としてこの掘井碑が建立された。その後,碑文が読みづらくなったた […]

モイドンは,「森」に「殿」という敬称をつけたもので,森神という意味。その神体が樹木であることが特徴だ。指宿は県下で最もモイドンが多く,40近い例がある。その一つ,上西園のモイドンは東方道上にある。このモイドンの依代はアコ […]

薩摩藩では、城下鹿児島からの軍事・交通連絡網が整備されていた。指宿は、谷山-喜入-今和泉-指宿-山川-頴娃-知覧へと続く谷山筋に属していた。  揖宿神社前をとおり、中福良を過ぎた辺りで、宮ヶ浜方面に曲がり、湊川へと続く道 […]

温湯では,約53,000年前,池田湖北岸の清見岳の噴火で堆積した火山噴出物の露頭を保存・展示している。地層が波形に曲がったしゅう曲や,断層など,ダイナミックな大地の動きを観察できるポイントである。

嘉永5年頃(1852),約3km離れた池田湖付近から二月田温泉まで,石樋を使って飲料水を引く工事が行われた。安政4年(1857)には,二月田温泉に湯治に来ていた島津斉彬が,周辺は水の便が悪く田んぼが少ないことを見て,池田 […]