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近世・近代

history-kinsei_kindai近世・近代の指宿では,様々なドラマが起こっていた。

幕末から明治維新にかけては,「今和泉島津家」の篤姫は将軍家に嫁ぎ,徳川家の存続に尽くした。第27代薩摩藩主島津斉興,第28代斉彬は,指宿で数々の公共事業を行った。海商濵﨑太平次や河野覚兵衛は,藩港の山川港を拠点に黒砂糖貿易や密貿易で富を築き,財政難にあえぐ薩摩藩を支えた。

また,指宿の温泉は薩摩の偉人たちにも愛されていた。島津家代々の藩主や西郷隆盛が温泉地に滞在したとの記録が残っている。
市域には,激動の時代や,偉人たちの休日を偲ばせる文化財が多く残っている。

*もっとくわしく知りたい方へ  篤姫のページ / 太平次のページ

スポット一覧

枚聞神社の西側一帯には,江戸時代まで瑞応院という枚聞神社の別当寺(神社に付属していた寺)があった。瑞応院は,僧正智通によって,白雉3年(652)開山,その後,数百年の間廃寺となっていたが,正中3年(1326),島津氏が舜 […]

地元の人々に頼宋塚(デスドン),九郎塚(クロドン)と呼ばれる2つの塚には,次のような話が伝えられている。「頴娃6代城主兼堅の子・九郎と,兼堅の側室の子・小四郎という弟との間で,頴娃家の相続争いが起こった。小四郎の母親は九 […]

鬼門平に沿って,金鉱床が存在する。明治から昭和30年頃まで多くの鉱山が開発され,たいへんな賑わいをみせたという。そのなかの一つに,1844年(弘化元)に発見された大谷鉱山がある。当時の技術では採鉱は困難を極め,4年後には […]

今から約400年前,薩摩藩は琉球王国を統治し,慶長18年(1613)からは、琉球使節団の派遣が始まった。枚聞神社には,「徳偏海天(徳は海と天にゆきわたる)」等と書かれた,7枚の琉球扁額(へんがく)が奉納されている。「海門 […]

明治7年旧暦12月27日夕方。西郷隆盛が突然,鰻湖畔に泊まりに来た。西郷は約一月滞在し,昼は開聞岳辺りへ猟に出かけ,毎晩温泉につかった。これは,西郷が政府の中で主導権争いに敗れ,鹿児島に帰ってきたすぐ後のこと。この時,佐 […]

苗代川に薩摩焼の窯が開かれたころ,陶工たちは原料の藩内調達のため調査にあたり,山川成川村の大岡でカオリンを発見した。これによって白薩摩の製造が可能となった。鰻にある登窯では,殿様への献上品を焼いたという。また,明治末,苗 […]

安政4年(1857),島津斉彬は,指宿が水利に乏しく田んぼが少ないことから,池田湖の水を灌漑用水にあてることを考案した。池田湖の壁を掘削し開聞の新川とつなぐ計画だ。こうして鳥越掘削工事は始まった。しかし翌年の斉彬の死と明 […]

太平次公園にあるアコウの巨樹は,推定樹齢300年。もともとは江戸時代に五人番が置かれた大渡海岸に生えていた。五人番とは,山川港に入る異国船を見張る場所。5人で見張りをしていたから「五人番」と言う。このアコウは平成18年の […]

島津の殿様は,船で二反田川をさかのぼり,殿様湯まで湯治に来ていたという。天保14年(1843)には,指宿港の北側約1㎞のところにある二反田川の河口,通称「潟口」に船溜りが築造される工事が行われており,現在もその一部が残っ […]

江戸時代,島津氏は山川・佐多・吉野の三ヵ所に薬草園を設け,薬用植物の栽培に努めた。そのうち最も古いのが,万治2年(1659)に開設された山川だ。今も残るリュウガンは,当時栽培されたものといわれ,推定年齢300年以上。 『 […]

正龍寺が開かれた年代は不明だが,明徳元年(1390年),京都五山の虎森(こしん)和尚が再建したと伝えられる。以来数百年,多くの名僧を輩出。京都の儒家・藤原惺窩(せいか)をも驚かす学問的水準の高さを誇り,“薩摩文教の府”と […]

河野家は江戸時代,薩摩藩の貿易に一役買った山川の豪商。代々「覚兵衛」と名乗る家柄だった。奄美・琉球から得た黒砂糖や交易品を大阪方面に運び,財を成したと伝えられる。河野家の墓は福元の墓地にあり,初代から7代までの歴代覚兵衛 […]