近世・近代
スポット一覧
枚聞神社の西側一帯には,江戸時代まで瑞応院という枚聞神社の別当寺(神社に付属していた寺)があった。瑞応院は,僧正智通によって,白雉3年(652)開山,その後,数百年の間廃寺となっていたが,正中3年(1326),島津氏が舜 […]
地元の人々に頼宋塚(デスドン),九郎塚(クロドン)と呼ばれる2つの塚には,次のような話が伝えられている。「頴娃6代城主兼堅の子・九郎と,兼堅の側室の子・小四郎という弟との間で,頴娃家の相続争いが起こった。小四郎の母親は九 […]
今から約400年前,薩摩藩は琉球王国を統治し,慶長18年(1613)からは、琉球使節団の派遣が始まった。枚聞神社には,「徳偏海天(徳は海と天にゆきわたる)」等と書かれた,7枚の琉球扁額(へんがく)が奉納されている。「海門 […]
明治7年旧暦12月27日夕方。西郷隆盛が突然,鰻湖畔に泊まりに来た。西郷は約一月滞在し,昼は開聞岳辺りへ猟に出かけ,毎晩温泉につかった。これは,西郷が政府の中で主導権争いに敗れ,鹿児島に帰ってきたすぐ後のこと。この時,佐 […]
苗代川に薩摩焼の窯が開かれたころ,陶工たちは原料の藩内調達のため調査にあたり,山川成川村の大岡でカオリンを発見した。これによって白薩摩の製造が可能となった。鰻にある登窯では,殿様への献上品を焼いたという。また,明治末,苗 […]
安政4年(1857),島津斉彬は,指宿が水利に乏しく田んぼが少ないことから,池田湖の水を灌漑用水にあてることを考案した。池田湖の壁を掘削し開聞の新川とつなぐ計画だ。こうして鳥越掘削工事は始まった。しかし翌年の斉彬の死と明 […]
鬼門平に沿って,金鉱床が存在する。明治から昭和30年頃まで多くの鉱山が開発され,たいへんな賑わいをみせたという。そのなかの一つに,1844年(弘化元)に発見された大谷鉱山がある。当時の技術では採鉱は困難を極め,4年後には […]
太平次公園にあるアコウの巨樹は,推定樹齢300年。もともとは江戸時代に五人番が置かれた大渡海岸に生えていた。五人番とは,山川港に入る異国船を見張る場所。5人で見張りをしていたから「五人番」と言う。このアコウは平成18年の […]
島津の殿様は,船で二反田川をさかのぼり,殿様湯まで湯治に来ていたという。天保14年(1843)には,指宿港の北側約1㎞のところにある二反田川の河口,通称「潟口」に船溜りが築造される工事が行われており,現在もその一部が残っ […]
江戸時代,島津氏は山川・佐多・吉野の三ヵ所に薬草園を設け,薬用植物の栽培に努めた。そのうち最も古いのが,万治2年(1659)に開設された山川だ。今も残るリュウガンは,当時栽培されたものといわれ,推定年齢300年以上。 『 […]
正龍寺が開かれた年代は不明だが,明徳元年(1390年),京都五山の虎森(こしん)和尚が再建したと伝えられる。以来数百年,多くの名僧を輩出。京都の儒家・藤原惺窩(せいか)をも驚かす学問的水準の高さを誇り,“薩摩文教の府”と […]
河野家は江戸時代,薩摩藩の貿易に一役買った山川の豪商。代々「覚兵衛」と名乗る家柄だった。奄美・琉球から得た黒砂糖や交易品を大阪方面に運び,財を成したと伝えられる。河野家の墓は福元の墓地にあり,初代から7代までの歴代覚兵衛 […]